本土寺過去帳

本土寺
仁王門
 松戸市の本土寺の過去帳には、我孫子の地名を記録した最古文書と考えられており、この過去帳が我孫子市をふくむ中世後期史の研究資料として、貴重な資料だそうです。
 本土寺にお願いしこの過去帳が収められている宝蔵内を見せて頂くことができましたが、過去帳の内容については非公開とのことです。
 (注)この宝蔵は、一般公開はされておりません。
 過去帳の詳しい内容については、我孫子市教育委員会発行、森田洋平・我孫子市史編集委員編書の「本土寺過去帳年表」にて紹介されております。
 別名あじさい寺とも云われている。境内にはあじさいの他桜等の植物が沢山うえられている。

本土寺過去帳

本土寺
過去帳が収められている「宝蔵」

本土寺過去帳

本土寺
本土寺過去帳が収められている。

我孫子市中里 中野治四郎邸絵図

中野治四郎邸
我孫子市史研究11より転写

我孫子市中里 中野治房邸

我孫子市中里 中野治房邸
中野 治房邸 左側の煉瓦の塀は地元で焼かれたものだそうです。
国道356号線と成田線の間を平行に走る中里通りがある。この中里通りを湖北駅より湖北小学校方面へ向かうと左側に中野家がある。
 地元でつくられた赤煉瓦の塀と、がっしりした四足門のある家。庭内の槙の大木と石積みの蔵がひときわ人の目をひきつける。
 14代をかぞえる旧湖北村の旧家で先々代冶房〈1883〜1973(はるふさ)〉は手賀沼の水藻の研究で理学博士となり、戦前まで東大の教授であった。戦後は一時期湖北村長もやり、敗戦後の荒廃した世相を憂えて若者たちがつくった「湖北文化連盟」の会長ともなり、郷土の文化向上にも大きな貢献を果たした。博士はまた歴史に対する造詣も深く、大正年間近隣の市町村史の中でもひときわすぐれた菅井敬之助編の「湖北村村誌」の校閲者でもあった。それは単なる名目的な校閲ではなく、菅井の質問に対し、ひとつひとつ精しい見解を披瀝しながらの協力であったことが、菅井の遺稿でうかがわれる。
 晩年には私家版ではあるが「中峠城主の事蹟」も編んでいる。
 さらに治房の父親であった12代治四郎も村治に大きな業績をのこしている。すなわち、明治初年学校制度が始まると間もなく、村の学務委員を担い、湖北小の校舎を寄贈するなど、精神的・物質的に尽力した。この経緯は「湖北村誌」や「湖北小沿革誌」に精しい。 また治四郎は明治37年の日清、日露両戦争の困難な時期に村長の要職を遂行している。 旧我孫子町出身で歯科医学界の権威であった血脇守之助は少年時代中野家に寄宿し、治四郎に学んでいる。
 中野家は屋号を酒屋というように、江戸時代中期のころから、明治初年まで酒造家でもあった。いまなお当時の井戸を庭内に見ることができる。
「我孫子の史跡を訪ねる」我孫子市教育委員会編集・発行より

我孫子の地名について

我孫子地名図
「我孫子」という地名について。
 我孫子という意味はいったい何でしょうか。「我孫子とは何か」ということを探る方法を考えてみたいと思います。それには次の三つの方法があると思います。
 その第一は我孫子市の「我孫子」の歴史を探ることです。私たちの我孫子という地名がどの時代までさかのぼるのか、ということです。
 古い過去帳として全国的に有名な松戸市小金の本土寺過去帳のなかに、「妙徳 二木平七 アヒコニテは被打」という行があります。これは文明二年(1470年、室町時代中期)の記録です。この記録がこれまで私たちの市の「我孫子」が文献にみられる最も古いものとされてきました。つまり文献上では「我孫子」という記録はそれほど昔まではさかのぼらなかったのです。
 ところが最近の調査で、市史編集委員の岡田清一先生が、はるか離れた九州の三池文書の中に、「アヒコ」という地名があることに気づかれました。それは「しもつさのくにあひこのむら」というもので、これが我孫子市の「我孫子」を示すものであることは明らかです。この古文書は、正和二年(1313年)のもので、鎌倉時代末期のものです。千葉氏の一族であり、当時相馬郡を所領としていた相馬氏の娘が、九州の三池氏へ嫁に行くときに、相馬氏の所領のうち「あひこのむら」を持参したことを示すものでしょう。つまりこれによって、「あびこ村」という地名の歴史が、室町時代中期から鎌倉時代末期まで、さらに百数十年もさかのぼることになりました。
 つまり、これによって鎌倉時代にはすでに「我孫子」という地名が存在していたことが確実になつたのです。しかしそれ以前に「我孫子」という地名があったのかということは、今のところこれを示す文献記録は存在しにいので、何ともいえないのです。
 しかし私は、我孫子市の「我孫子」という地名の起源は、さらにさかのぼって大化以前の時代、すなわち七世紀以前のころまでさかのぼるのではないかと推測しています。そのことを考えるためには第二の方法が必要です。
 その第二の方法とは、我孫子市以外の我孫子という地名を探ることです。
 現在の大阪市住吉区には我孫子とい地名があります。あびこ行の地下鉄の終点です。この我孫子は『古事記』や『日本書紀』に載せられている「依網之阿毗古」(よさみのあびこ)に比定される土地です。この阿毗古は、大王(おおきみ)に魚や鳥などの食糧を奉ることを職業としていた氏族の名であったと考えられます。つまりアビコとは古代からあった地名、もしくは氏族の名であったことが判明します。〜中略〜 
 また調査を進めていくなかで、藤原氏の、しかも宮跡地に「我孫子」という地名が見つかりました。〜中略〜
 このように各地方の「アビコ」という地名を探し出し、その歴史を考えていくと、この地名が畿内やその周辺のみあったものではんくて、かなり全国的に分布しているものであり、それらと古代の氏姓である「アビコ」との関係を考えると、我孫子市の「我孫子」もその起源は大化以前にまでさかのぼるのではないかと推測されるのです。
 第三の方法は、全国の「アビコ」姓を探すことです。「我孫子」「安孫子」「阿比古」「網引」「鮑子」など、「アビコ」という姓は、調査されたものだけでも、全国に約3000戸あることが判明しました。しかもその分布は、本文に示されているように、きわめて興味深い特徴示しています。〜中略〜
 国道6号線の建設によって破壊されてしまいましたが、それ以前には我孫子市に「我孫子城」という城跡がありました。それは我孫子駅裏の丘陵から久寺家に向ってはり出した舌状台地にあったもので、30年前までは、空濠や土塁が残っていました。この城は戦国時代のもので、我孫子氏の居城であったのです。この我孫子氏は、秀吉の小田原征伐のとき、北条市とともに滅んでしまいました。現在もその子孫は何処に行ったか分からなくなっています。全国の「アビコ」姓を探しているうちに、もしもこの我孫子氏の子孫が判明したならば、それはなんと興味のあることではないでしょうか。
 それだけではありません。それぞれの「アビコ」さんが出自のうえでおたがいにどのように関係しているのかということ、そして私たちの住む我孫子市の背後には、このように多数の姓氏を同じくする「アビコ」さんが控えているのだということを知ると、我孫子市に住む私たちとって、なにか心強いことになるのではないでしょうか。〜中略〜
 いずれにせよ現在、我孫子市研究センターが取り組んでいる「アビコ」の地名と姓氏との調査は、今後どのような新しい事実が発見されるか分かりませんから、とても楽しみです。この書物は、現在までに調査された中間報告です。これからまだ調査されていない「アビコ」について、もっともっと調査が進められなければなりません。皆さんのご協力をお願いいたします。
THEアビコ 増補判 1997年7月20日発行
(我孫子市史編さん委員・東京大学名誉教授・東洋史 西嶋 定生書)より引用
西嶋 定生 1919年に岡山県で生まれる、1998年没

相島新田開拓

相島新田
相島新田現地
相島新田「井上家」は寛永の頃江戸尾張町で食料雑貨を扱う乾物問屋を営んだ「近江屋佐次兵衛」が初代とされ、享保13年(1728)第4代佐次兵衛(徳栄・1668〜1779)が江戸の家屋敷を整理して、手賀沼畔の土地干拓と農業経営を志して移住した。
当時代の背景は、徳川吉宗が享保元年当時乱脈化した政治、経済、士気の低迷を強力に打開刷新する大改革を実行した。
その中の一として、幕府財政の基礎を固めるために農民から取り立てる年貢増収策がある。即ち耕地の拡大を図り米穀の絶対量を増やして年貢の増徴となるよう、新田になるような適当な箇所があれば、願い出により早速調査のうえ裁許の方針をとり行う旨の高札を立て、種々の奨励作をとった。
九代佐次兵衛(1821〜80)は、新田地主として地方豪農の礎を固め、相島新田の「壱人請」名主となり、明治維新後には副戸長をつとめ、、十代佐平治(章房・1835〜1901)と油渡世、鳥猟、地方(じかた)金融業など大農経営と併行しながら地その域における地位が益々固まるようになった。
十二代井上二郎(1873〜1941)が、明治三十年三月藤代(現茨城県取手市・旧藤代町)旧家本陣名主をつとめた横瀬家から井上家へ婿養子入りをし、東京帝国大学出の土木技師として、明治から大正にいたる日本近代化開発の時期において郷里、官界民間にわたり知識技能をかたむけ社会活動を行い、後半期において郷里「布佐」に帰り、井上家がかつて江戸から相島新田に移住した素志目的を更に拡大継承し、新しい視野の下に地域農業発展のため、手賀沼開墾事業を率先遂行した活動期間に当たっており、それが中心となっている。
井上家は、江戸から移住した新規開拓農民であり、数戸の集落の頭として位置し着々豪農経営の基盤を進めていたものあって、地方的な旧家の根戸、柴崎の川村家、或いは小熊家、飯泉家などの文書とは、形態、内容の性質が異なるものであり、従ってまた別の角度からみて貴重なものである。(我孫子市史研究11より)

相島新田開拓

相島新田地図
相島新田地図

相島新田開拓

開発済世碑説明文
新田開発済世碑説明文

相島新田開拓

開発済世碑
新田開発済世碑

calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>
selected entries
categories
archives
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM