この「
停車場道碑」は我孫子駅南口駅前の花やさんの歩道の植樹帯にある。出来れば説明文を建てて欲しい。
我孫子駅の歴史を語るうえで、
飯泉喜雄を語らなければならない。
明治元年5日5日、相馬郡我孫子宿2640番地で出生する。父は飯泉其恕、代々名主であった。
青年になるまでの名を「喜之助」といい、後に「喜雄」とする。
取手の染野勇三郎、島田重礼の下で漢学を学ぶ。
喜雄たち我孫子の対応は積極的に誘致に動いた。何といっても
鉄道を誘致することで、多大の恩恵を受けると確信し、誘致運動に専念した。
まず、役場(現我孫子寿保育園)から高野山にかけての広い土地をかなり所有しており、その土地を当時町はずれだった現在の駅付近の土地と交換して、
停車場(駅の意味)
用地を確保していった。
「
火の粉をまき散らす恐いもの」と汽車に反対していた人達が若干あったらしいが、民家のないところに目をつけた喜雄の計画は功を奏し、自ら停車場予定地として準備した場所を鉄道用地として、無償提供を唱えた誘致の陳情は容易に決定したようだ。
喜雄はこうして、私財を投げて鉄道誘致につぎ込み、我孫子の発展に尽くした。
我々市民が自慢できるのは、
代々続いた名主としての家財をすべて常磐線(日本鉄道土浦線)に注ぎ込んだからである。
喜雄が
第四代町長になつたのは鉄道出願から二年後、工事着工から八ヶ月後の明治28年7月である。
当時27才。鉄道誘致に精力的に動いたときは、町長でもない、ただの
一町民だったことに注目すべきではないだろうか。
明治34年12月に再び八代町長に就任。元町長時代から手がけていた駅前の整備に尽力、
停車場道(駅前より356号との交差点)をつくり、
駅及び道路に桜の木を植え、環境づくりに専念する。その記念碑が「
停車場道碑」と「
桜樹植付記念碑」がある。
喜雄は明治39年9月、病(結核といわれる)
38才で急逝してからの飯泉家には、四方八方から負債取り立てに人が集まり、残された家族も全然知らない借金の返済を迫る人達が、他人は勿論、近親者からもあらわれたという。
未亡人になった
妻「まさ」は証文もないままの要求にも応じて、永年続いた飯泉家の財産は、またたく間に無くなってしまったようだ。
周囲の急変と気苦労が重なり、精神的にもまいってしまい、健康を害し、明治43年6月13日、41才で亡くなった。長男喜一郎は24才、次男喜輔幼少で、三男喜久雄も19才で死亡。喜雄の血を直接継いでいるものは、誰一人いない。
本文章は我孫子市史研究10より引用した。