成田線

我孫子行き
我孫子行き電車 湖北高校付近
成田線は、成田鉄道の前身で下総鉄道会社が明治30年1月19日に佐倉・成田間を開通させ、つづいて明治34年4月1日、我孫子・成田間も全線開通させた。
我孫子・成田間をはじめに出願したのは関東鉄道会社で、成田を起点として、我孫子・野田・岩槻・大宮を経て川越までの鉄道を出願していた。
成田鉄道会社は、この路線をゆずり受けて、成田・川越間を改めて才請願した。しかし、明治31年に免許を受けたのに、我孫子・川越間は五年後に返上してしまった。
開通して一年後、成田鉄道は上野から我孫子を通って成田までを一日六本直通運転していた。
成田鉄道の国有化は、大正9年9月1日だった。
           我孫子市史研究10より

成田線

成田行き
成田行き電車 湖北高校付近

我孫子駅開設記念碑

停車場道碑
この「停車場道碑」は我孫子駅南口駅前の花やさんの歩道の植樹帯にある。出来れば説明文を建てて欲しい。

我孫子駅の歴史を語るうえで、飯泉喜雄を語らなければならない。
明治元年5日5日、相馬郡我孫子宿2640番地で出生する。父は飯泉其恕、代々名主であった。
青年になるまでの名を「喜之助」といい、後に「喜雄」とする。
取手の染野勇三郎、島田重礼の下で漢学を学ぶ。
喜雄たち我孫子の対応は積極的に誘致に動いた。何といっても鉄道を誘致することで、多大の恩恵を受けると確信し、誘致運動に専念した。
まず、役場(現我孫子寿保育園)から高野山にかけての広い土地をかなり所有しており、その土地を当時町はずれだった現在の駅付近の土地と交換して、停車場(駅の意味)用地を確保していった。
火の粉をまき散らす恐いもの」と汽車に反対していた人達が若干あったらしいが、民家のないところに目をつけた喜雄の計画は功を奏し、自ら停車場予定地として準備した場所を鉄道用地として、無償提供を唱えた誘致の陳情は容易に決定したようだ。
喜雄はこうして、私財を投げて鉄道誘致につぎ込み、我孫子の発展に尽くした。
我々市民が自慢できるのは、代々続いた名主としての家財をすべて常磐線(日本鉄道土浦線)に注ぎ込んだからである
喜雄が第四代町長になつたのは鉄道出願から二年後、工事着工から八ヶ月後の明治28年7月である。
当時27才。鉄道誘致に精力的に動いたときは、町長でもない、ただの一町民だったことに注目すべきではないだろうか。
明治34年12月に再び八代町長に就任。元町長時代から手がけていた駅前の整備に尽力、停車場道(駅前より356号との交差点)をつくり、駅及び道路に桜の木を植え、環境づくりに専念する。その記念碑が「停車場道碑」と「桜樹植付記念碑」がある。
喜雄は明治39年9月、病(結核といわれる)38才で急逝してからの飯泉家には、四方八方から負債取り立てに人が集まり、残された家族も全然知らない借金の返済を迫る人達が、他人は勿論、近親者からもあらわれたという。
未亡人になった妻「まさ」は証文もないままの要求にも応じて、永年続いた飯泉家の財産は、またたく間に無くなってしまったようだ。
周囲の急変と気苦労が重なり、精神的にもまいってしまい、健康を害し、明治43年6月13日、41才で亡くなった。長男喜一郎は24才、次男喜輔幼少で、三男喜久雄も19才で死亡。喜雄の血を直接継いでいるものは、誰一人いない。
                  本文章は我孫子市史研究10より引用した。

我孫子駅開設記念碑

桜樹植樹記念碑
我孫子市緑1丁目、香取神社境内に建てられた桜樹植樹記念碑

我孫子駅開設記念碑

桜樹植樹記念碑
桜樹植樹記念碑の裏側 催主 故 飯泉喜雄とある。左より四人目

我孫子駅と常磐線

明治38年 我孫子駅
明治38年の我孫子駅
この写真は我孫子市史研究10の写真を転写したものです。

我孫子に鉄道が具体化されたのは、明治27年11月2日、日本鉄道土浦線の免許が下りたことにはじまる。
日本鉄道は当時、半官半民の企業として営業し、政治的にも大きな力をもった日本最大の鉄道会社だった。
我孫子に鉄道が走ったのは明治29年12月25日である。
我孫子に直接関係するのは土浦線(田端・友部間)で『日本鐵道史』中篇によると、土浦線は本免許(明治27年11月2日)以前の仮免許の際には、川口から東北本線と分岐し、土浦・石岡・水戸のコースで申請した。
しかし、工事が予想される地域の反対が意外に強く、一ヶ月後に急拠、上野・田端.松戸・根戸(当時富勢村根戸)・土浦・友部のコースに変更、免許状を受けた。
現在走っている常磐線と、ほぼ同じコースで本免許を受けて、工事に着手している。
以上の内容は、我孫子市史研究10より引用したものです。
次回に我孫子駅の出来るまでの事を掲載したいと思います。

我孫子駅と常磐線

明治38年 我孫子駅
明治38年の我孫子駅
この写真は我孫子市史研究10の写真を転写したものです。

我孫子に鉄道が具体化されたのは、明治27年11月2日、日本鉄道土浦線の免許が下りたことにはじまる。
日本鉄道は当時、半官半民の企業として営業し、政治的にも大きな力をもった日本最大の鉄道会社だった。
我孫子に鉄道が走ったのは明治29年12月25日である。
我孫子に直接関係するのは土浦線(田端・友部間)で『日本鐵道史』中篇によると、土浦線は本免許(明治27年11月2日)以前の仮免許の際には、川口から東北本線と分岐し、土浦・石岡・水戸のコースで申請した。
しかし、工事が予想される地域の反対が意外に強く、一ヶ月後に急拠、上野・田端.松戸・根戸(当時富勢村根戸)・土浦・友部のコースに変更、免許状を受けた。
現在走っている常磐線と、ほぼ同じコースで本免許を受けて、工事に着手している。
以上の内容は、我孫子市史研究10より引用したものです。
次回に我孫子駅の出来るまでの事を掲載したいと思います。

我孫子駅と常磐線

明治38年 我孫子駅
明治38年の我孫子駅
この写真は我孫子市史研究10の写真を転写したものです。

我孫子に鉄道が具体化されたのは、明治27年11月2日、日本鉄道土浦線の免許が下りたことにはじまる。
日本鉄道は当時、半官半民の企業として営業し、政治的にも大きな力をもった日本最大の鉄道会社だった。
我孫子に鉄道が走ったのは明治29年12月25日である。
我孫子に直接関係するのは土浦線(田端・友部間)で『日本鐵道史』中篇によると、土浦線は本免許(明治27年11月2日)以前の仮免許の際には、川口から東北本線と分岐し、土浦・石岡・水戸のコースで申請した。
しかし、工事が予想される地域の反対が意外に強く、一ヶ月後に急拠、上野・田端.松戸・根戸(当時富勢村根戸)・土浦・友部のコースに変更、免許状を受けた。
現在走っている常磐線と、ほぼ同じコースで本免許を受けて、工事に着手している。
以上の内容は、我孫子市史研究10より引用したものです。
次回に我孫子駅の出来るまでの事を掲載したいと思います。

さざんか?

さざんか?
国道356号線沿いの高野山の空き地で見かけました。
花弁が散っていましたので多分「さざんか」の種類
と思われますが、花図鑑を見ても特定ができませんでした。
種類が分かる方おられましたら、教えて下さい。

さざんか?

さざんか?

calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< December 2008 >>
selected entries
categories
archives
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM