私たちの我孫子むかし昔

 夏休み最後の日曜日。市内ではいろいろなイベントが開催されておりますが「けやきプラザ・ふれあいホール」で開催されている「私たちの我孫子むかし昔展」を訪ねてきました。


 我孫子市内は南に手賀沼、北の利根川に挟まれた東西に長い地形で多くの高台があり各地に遺跡が沢山あります。

 高台の場所で建築行為等(新築・建替)を行う際は必ず市の教育委員会で文化財の有無の確認が必要です。但し、大規模開発地又は開発許可を得て分譲した土地や区画整理地内は調査済みがほとんどですが、一応は確認された方が無難です。大事な祖先の遺物ですからね。


 今日は文化財担当の職員の方に詳しく説明を受け、認識を新たにして参りました。ごく一部しかアップ出来ませんがご覧下さい。

0.我孫子昔むかし1.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.我孫子昔むかし1−1.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.我孫子昔むかし9.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.我孫子昔むかし3.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−0.我孫子昔むかし4.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.我孫子昔むかし5.jpg
このように全部がきちんとしているものはとても珍しいそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−0.我孫子昔むかし6.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.我孫子昔むかし7.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.我孫子昔むかし8.jpg 

我孫子・霞ヶ関間開通

 40年前の今日、昭和46年4月19日午前10時13分発の試乗電車出発、翌20日より我孫子―霞ヶ関間を直通運転が開始された。


 従来の取手―上野間は快速電車が運行され、我孫子―霞ヶ関間は緩行電車となり各駅停車となった。緩行電車は綾瀬―霞ヶ関間は営団地下鉄線、綾瀬―我孫子間は国鉄線が(現JR)
直通して運転されるもので営団地下鉄線電車と相互乗り入れとなった。


 快速電車は取手―天王台―我孫子―松戸―北千住まで快速運転で上野までは各駅停車となり、上野―取手間は44分で結ばれ従来より10分短縮された。


 我孫子駅は長距離電車・中距離電車・快速電車・緩行電車の全てが停車し大変便利となりました。


0.常磐線複々線3.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.常磐線複々線2.jpg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0常磐線複々線1.jpg
                        写真・記事は広報あびこより転写、引用


行商のおばさん

 

 先日、業界のリクレーションに参加し久々に成田線の湖北駅より午前5時19分の上り電車に乗車した。


 懐かしい光景を目にしました。まだ都内へ野菜などを売りに行く行商のおばさんだ


 私が高校や大学に通学していた頃のおばさん達の姿はいまだ変わりがない。


 行商の始まりは関東大震災の後から始まったようです。最も行商が盛んだったのは昭和30年より40年代の前半で、行商人の専用車両があり、列車の中で物々交換や行商人に品物を売り歩く専門の人もいた。


 働く人は1日に2往復する人も少なくなく大変な働き者だった。行商の組合があった事も記憶にあります。近所でも行商で一家を支えていた家もありました。


 専用車両こそないが、まだ、乗る車両は決めているようで車内では品物をおばさんに売っている人もまだ存在している。


 荷物のカゴを持たしてもらったがかなり重い。おそらく5、60
Kg位ありそうでおばさんに云われてしまった。荷物を背負うのは「こつがあるんだよ」って。たいしたものですね。

0.行商の人1.jpg
品物を売っている人も
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
0.行商の人2.jpg
手前の荷物すごいでしょ。となりのおばさんがかごとビニール袋もって都内へ。


増田 實

増田 實
増田 實
増田實は明治31年(1898)7月26日、旧永治村(現印西市)
亀成の武藤家の次男としてうまれた。その後、23歳で現我孫子市日
秀の増田家長女と結婚し養子となる。
 彼は大正5年19歳の1月1日より日記をつけはじめ、昭和30年
ころまで途中何度か病気や多忙のため白紙の部分を残しながらも、詳
細な日記遺している。
 後年のものは日記というよりも人生を振り返っての所感あるいは重
要事項の防備録に近いが、第二次対戦の始まる昭和15年(1940)
までの日記は、文字通りの日録といって。日々の生活のあとがよく知
られる記事に満ちており、彼の汗と精神が滲んでいるといってよい。
 日記の特色は、毎日の天候とそれにかかわる様々の状況、たとえば
手賀沼の水位(手賀沼は過去に何度も水害があった)、波、濁りかた、
風向きとその変化、雲の有様、それらと生活−農耕・漁業・鴨猟など
の関係が生彩あふれる筆で記されており、いかにも生活を託した者の
哀歓が浮き彫にされているかの観がある。
 従って我孫子市史研究の資料としては極めて重要なものとしてなっ
ており、既にこれについて二・三の研究論文も発表されているが、民
俗分野からはまだ利用したものを見ない。
 大正5年の日記にはつぎのようにして始まる。
 「元日雨 水神宮に参る。二日、日記を買いつけはじまる。
〈雨だりにくぼみし軒の石見ても難き業とて恩棄とてめや〉」
 以上は増田實についてのほんの一部のことしか述べられないが、市
の図書館には詳しくまとめられた書籍があるので、我孫子に興味のあ
る方は一読されることをおすすめしたい。
 我孫子には白樺派の文豪や有名な人々がいたが、庶民の立場で生活
等々の内容を細かくしるされた重要なものだと私は思う。
写真及び文章・我孫子市史より参考及び一部引用

手賀沼ができるまで

手賀沼ができるまで
 関東地方は約1万年から5,000年前には、現在の手賀沼はもちろん、大堀川や大津川の流れる低地の大部分は海であった。地球全体が寒冷化すると氷河ができるため海面が下がって陸地があらわれる(海退)。逆に温暖化すると氷河がとけて、海面が上がる(海進)。1万〜5,000年前の地球は温暖化の時代であった。
 
 図のように、下総台地・房総半島をはさんで、現在の鹿島から霞ヶ浦、利根川にかけての広い湾入部があった。もう一つは東京湾がより深く切れ込んでいた。これを縄文海進といい、海面の最高は、8,000年前であった。現在の台地のへりに縄文人が住み、陸で狩猟し海から魚や貝を採ってくらした。各地に貝塚が見られる。現在の霞ヶ浦(香取海)の湾入として手賀沼や印旛沼があった。
〜中略
 
 さらに手賀沼をみるとき、関東平野が埼玉県加須市、栗橋町付近を中心に低下が続き、銚子・房総半島南部、三浦半島南部、三浦半島など周辺部の地盤が上昇する(関東大震災のような大地震では顕著)関東造盆地運動からみる必要もあろう。千葉や佐倉付近で30メートルである下総台地の高さが、手賀沼周辺で20〜25メートル、利根運河の北では17メートルほどになる。いわば利根川の排水は中流の栗橋、関宿で地盤が下がり、下流の銚子方面で上昇するため悪くなった。利根川からあふれた水は、手賀沼に逆流し、手賀沼は利根川の遊水池ともなった。

 そのため、木下付近で利根川の砂が手賀沼に向かって堆積し、次第に入口がふさがっていった。手賀沼の東部は利根川の砂の堆積と関東造盆地運動で地盤がわずかつづり上がり、沼化が進んでいく。印西町(現印西市)発作や我孫子市布佐は利根川の洪水が手賀沼に流れることでできた逆三角州で、手賀沼が浅くなった所である。
 相原正義著 手賀沼100話 転写引用

手賀沼ができるまで

手賀沼ができるまで
手賀沼ができるまで
 
 手賀沼はいつごろどのようにしてできたのだろうか。台地の上から見通すと、いずれもほぼ同じ高さであることに気づく。25,000分の1や5万分の1の地形図をみると、これらの台地の高さは20〜25メートルである。沼をとりまく台地は下総台地と呼ばれる。
 
 遠い昔、この下総台地も海の底であった。北に筑波山、東に銚子の島、南に島 (房総島という)があった。そして西には三浦半島から榛名山、赤城山にいたる関東の陸地が広がっていた。房総の島から鹿島に至る海は古東京湾とよばれた。
 
 古東京湾は80万年ほどまえから序々に沈降して海となった。海となると関東の山地から流れくる鬼怒川、利根川、多摩川などの川は多量の土砂を海に運んできた。その土砂が海底に厚く堆積していった。こうしてできた地層は砂礫の多い成田層とよばれる。我孫子や沼南(現柏市)など手賀沼の周辺の崖に見る砂礫の成田層は、遠く群馬や秩父の山々から古東京湾に流れてきた土砂が、海流によって運ばれて堆積し、下総台地の基礎になったと考えられている。
 
 20万年ほど前になると古東京湾は隆起をはじめ、やがて陸地となった。そのころ古箱根を中心に火山活動が活発となり、噴き上げられた火山灰は偏西風によって運ばれ、成田層の上に積もった。この火山灰は下末吉ロームと呼ばれる。15万年から2万年ほど前には、古富士、古箱根火山が続いた。下末吉ロームの上に堆積した。この火山灰を武蔵ロームという。
 
 海底が隆起したばかりの台地はほぼ平らな土地であったが、やがてあちこちが風雨に浸食されて谷ができた。その谷も次第に大きくなって川ができてくる。手賀沼に注ぐ大堀川や大津川も谷が発達してできていった。台地のあちこちに土地の亀裂である断層も入って、台地も変化していった。手賀沼の少なくとも柏、我孫子に囲まれた西部は大堀川や大津川が台地をけずった所であり、いくつかの断層も加わって、台地をけずった所であり、いくつかの断層も加わって、台地の中の袋状の凹地ができていった。沼南町(現柏市)大井と我孫子市白山の低地(沼も含む)は1辧下にあたる手賀と湖北台間は1.5劼斑底が広がっている。次回△紡海

手賀沼100話(相原正義著)より引用転写

昭和43年当時の我孫子駅周辺

昭和43年我孫子駅周辺
昭和43年我孫子駅周辺の航空写真(我孫子市史近現代編より転写)
 写真中央よりやや下が常磐線、その中央付近が我孫子駅舎、右方向上野方面です。
 当時はまだ駅北口はなく、南口より踏切りを渡っていた。現在の北口の様子は当時の面影はない。
 当然南口も全く変貌した。駅前通りも狭く個人商店が並んでおり、鉄筋の建物は無かった。
 写真上の水色部分が手賀沼で、隣接した左側が現若松地区です。
 この若松地区は現在の住宅地になるまでは、合併前の我孫子町が「モーターボートレース場を手賀沼に設置し、観光と結びつけ我孫子町が一大発展を企画し」たのは昭和26年頃であった。
 しかし反対運動等々があり計画は頓挫し、その後、手賀沼デズニーランド計画がもちあがった。

手賀沼デイズニーランド計画

手賀沼デズニーランド計画
我孫子市史近現代編より転写 
このデイズニーランド計画は「広報あびこ」昭和36年1月1日号で施設計画図が発表された。この事業は旧沼南町も計画に加わり、手賀沼上に沼横断ケーブカーの設置も盛り込まれた。
 しかしこの事業も結果的には頓挫し、様々な変遷を経て現在の若松地区住宅地となり、この東側には我孫子高等学校が昭和45年に建設され開校した。

布佐町の水害

布佐町水害

「増田実日記」にみる戦時下の我孫子
布佐町の洪水
昭和13年10月13日(木)雨
 ・・・・湖上静かなれど一叟の舟もなく、水漸くあせたれども採泥、採藻などの影無きは何を物語るや。人心本年の凶作に反農離郷是を省みざるなり。
 収穫後の刈田の稲架、全穂をたれて縦横幾百条、眇茫の耕地を圧する情景を見ぬは限りなく寂しく、田面泥土ひた押に露出し畔も崩れて田の区割りもなく所々に漂流存在する。 大水後の惨たる姿は誰か目を覆わざるや。人心の離反又むべなるかな。
以上は増田実の日記に書かれたものであるが、治水工事がすすんだ今は市内での利根川や手賀沼の氾濫は私が生まれてからは記憶にない。
 *増田実は現在の印西市の武藤家に生まれ、我孫子市(旧湖北村)日秀の増田家に養子入った。勉強家であったようだ。
 写真、文章は我孫子市・我孫子市教育委員会発行 我孫子市史資料 近代編 別冊兇茲蠹昭漫一部引用

布佐町の水害

布佐町水害
布佐町の水害

calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728   
<< February 2018 >>
selected entries
categories
archives
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM