大光寺 石碑

大光寺石碑
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大光寺石碑

以前は聖天堂の入り口にあったようである。
 市内緑2丁目の国道356号線より手賀沼方面に入ると大光寺があり、その山門の先右側に石塔が建っている。


 『不可入産穢忌眠人』とある。但し、この石碑の建立日等は無い。市内の寺社は沢山観て巡ったが、ここはよく通るところであるが気がつかず、はじめて眼にした。


 我孫子市史(民俗・文化編)を調べてみると「大光寺の聖天さま、産穢忌服の碑」と題し、その意味が載っていた。


 市史には眠が→服に変わっていたが、この文の意味は{(産穢忌服の人入るべからず)お産で穢れた者と死者を出した家の者は入ってはならぬという禁忌の碑である}とある。又、人生最大の節目は出生と死亡であろう。妊娠した婦人がいよいよ出産となり、羊水とともに出血を伴いながら赤ん坊はこの世に出てくる。この時の血を穢れと考えていた。ともある。


 昔は喪中は門を閉ざし外出も控え家の中では喪服を着ていたようです。


 ところで、我が家は仏教徒ですが先祖が埋葬され又自分も何時かはお世話になる菩提寺です。父親が亡くなったお正月でも父が好物だった物を供えたりもしました。喪中であるかどうかに関係なくお参りするものだと考えます。


 皆様はどう考えますか。


 *この文章につき大光寺の石碑について批判中傷するものではありません。


東源寺石碑

東源寺石碑
市内柴崎の東源寺にある石碑で次ぎの内容のものを見つけました。
下総國相馬郡柴崎村
南妙法蓮華経庚申講供□塔廟
下総國相馬郡柴崎村享保十六□子十月頂経□蓮□□□
このお寺は曹洞宗なので、南無阿弥陀仏と書かれていればあたりまえ
なのですが、天台宗や日蓮宗でない寺にあるのはちょっと分からない
ですね。でも、この寺だけでなくてもこのような事はよくあるのでし
ょうか。?
        □は不明を表します。

東源寺石碑

東源寺石碑右よりより2番目

円福寺本堂

円福寺本堂

 当社より徒歩6分の所に柴崎神社と隣り合わせの「円福寺」があり、柴崎村鎮守羽黒妙見社の別当地であった。過去帳に元和二年(1616)の書入れがあって江戸時代初期と考えられる。山号羽黒山、真言宗豊山派、もと龍泉寺末(我孫子市中峠)
 現在の本堂は昭和62年に改新築された。宝形造、向拝付、銅板葺きで中央奥の仏間に大壇をそなえている。本尊は阿弥陀三尊である。

円福寺仏壇

円福寺本堂仏壇

円福寺太子堂

円福寺太子堂

 大師堂は切妻造、銅板葺、正面唐破風の向拝付である。堂内の奥壁に打付てある板には「文久三年(1863)再建」と記され、堂前の碑には「太子堂修繕、下総野田町、明治三十七年十月一日」とある。

円福寺鯖大師像

円福寺鯖大師像
 大師堂に並ぶ鯖太子堂には厨子入の鯖大師像がある。木造彩色、玉顔の像で笠をかぶり、苞を負い、わらじをはく遊行のすがたである。
 右手に鯖を持っているのは、諸国行脚の途次、魚商が運んだ塩鯖の一尾をもらって河に流したところ、塩鯖が生きかえったという伝説にちなむ。この像は、もと一里塚にあったが、道路を拡張することになったためこの場所へ移したという。
                我孫子市史 民族・文化編より引用

我孫子市久寺家 宝蔵寺

宝蔵寺本堂
 我孫子市久寺家の宝蔵寺は元和3年(1617)創建という。山号は明王山といい真言宗豊山派に属する。
 本堂は入母屋造り、瓦葺きで、入母屋屋根の妻を正面とし、その前に唐破風の向排をかまえている。
 本堂の左側には弘法大師千五十回忌報恩塔が建てられており(明治40年3月1日建)「抑も当寺密場に安置し奉る弘法大師ハ高野山金剛峯寺附属の霊場なりけるを多年の祈願により附与せられ明治十四年五月甘一日を以て尊体を当山に迎ひ奉れるものなり」と記されている。これは、住職窪現阿和尚が金剛奉寺にあった弘法大師像を当寺に乞い求めた。そして、それを関東における六十二番厄除大師として信仰をさかんにした。
我孫子市史より参考

我孫子市久寺家 宝蔵寺

宝蔵寺梵鐘
梵鐘

我孫子市久寺家 宝蔵寺

宝蔵寺梵鐘
梵鐘は、昭和49年5月5日の新鋳で「幸運の鐘」と称し鐘楼も建てられた。

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